秦王政即位時の形勢・その2秦

秦王政即位時の形勢・その2秦

 本題の「秦」編です。

・秦の根拠地
 秦の根拠地は、現在の陝西省の渭水流域にあたり、
現在では「関中盆地」と呼ばれる平野部とその周辺です。

 この地は周(西周)の建国の地で、周の中心は鎬、豊
(あわせて宗周)で現在の陝西省西安市西でした。
周が諸侯の申侯と西戎と総称される漢族とは異なる民族の
連合軍の襲撃を受けて東に移ると、西戎を討って渭水の
流域を下流に向けて支配を拡張したのが秦でした。

 秦は強盛となるにつれて首都を次第に東に移し、孝公
の時に秦王政の時の首都である咸陽(陝西省咸陽市)に
首都を置くようになりました。

・秦王政即位時までの拡張
 『史記』始皇帝本紀の冒頭には、秦王政の即位までに
根拠地である関中盆地に加えて、
「秦地已并巴、蜀、漢中,越宛有郢,置南郡矣;
北收上郡以東,有河東、太原、上黨郡;
東至滎陽,滅二周,置三川郡」
まで拡張していたとあります。

・南への拡張
 秦は南に向けては、秦嶺の南の漢中(陝西省南部)、
巴、蜀(四川省東部)を征服しました。また、昭襄王
の時に秦の将軍の白起は楚の首都である郢(湖北省
沙州市)を攻略し、楚の西半分を征服しました。秦は
その地に南郡を設置し、この地域の支配を確実なもの
としました。
 楚の頃襄王は陳(河南省淮陽県)に遷都し、東方に
配置された兵を集めて十余万の軍を再建し、長江付近の
十五邑を奪回し、郡として対秦防衛の拠点としましたが、
実力は大幅に低下しました。

・北への拡張
 北に向けては、魏の領土であった上郡(黄河屈曲部の
西岸の地)を攻略し、さらに魏の旧都の安邑を中心とした
河東地域(山西省南西部)を占領して河東郡、趙を攻めて
太原郡、昭襄王の時に韓を攻め、長平の戦いで趙に大勝
して上黨郡を設立しました。
 しかし、河東、太原、上黨の3郡の支配は、秦王政の
即位の時には、確実なものではなかったというのが実態
です。
 長平の戦いの後に、秦は趙の首都の邯鄲を攻めますが、
魏と楚の援軍に大敗したことから(昭襄王の五十年)、
この方面における秦の優位は失われました。これら3郡
は取ったり、取られたりという係争地となります。

・東への拡張
 東に向けては、戦国時代にさらに弱体化した周の領域
を収め、韓から獲得した土地をあわせて三川郡を設置
しました。
 この頃の周は公子を分封して小国を作っており、天子
である周王が洛陽(成周、河南省洛陽市)に、その西の
河南に西周君が、東の鞏に東周君がおり、「二周」とは
この東西の小国を指します。洛陽は東周に属していました。
 昭襄王の五十一年、将軍の摎はまず韓を攻めて陽城、
負黍(河南省登封)を攻略し、斬首四万という戦果を
挙げました。続けて摎は軍を北に旋回し、趙を攻めて
二十余県を攻略し、斬首と捕虜九万という戦果を挙げ
ました。
 西周君はこの機(秦軍の主力が北上している)に秦に
背き、秦以外の諸侯と合従し、諸国の精鋭をもって伊闕
(河南省洛陽市西南)に出撃し、秦が新たに獲得した
陽城、負黍の孤立を図りました。
 秦は北にこだわらず摎の軍をただちに南下させ、西周
の攻撃に向かわせました。
 西周君は決戦するわけでもなく、罪を認めて投降し、
その支配下の邑(城市)三十六城と口(人口、成人男子)
三万をすべて秦に献じました。秦はこれを受け取りました。
 東周は莊襄王の時に、東周君が諸侯と対秦の謀議を
行ったところから、秦に国を没収されています。
 これと同時に秦の将軍の蒙驁が韓を攻め、韓は成皋
などを献じて講和しています。この結果として、魏の
首都の大梁に接する滎陽付近まで領域を拡大した秦は
三川郡を設置し、この地域の支配を確実なものとしました。

・西への拡張
 始皇帝本紀は西については述べていませんが、昭襄王
の時に西戎の中でも強大であった義渠の王を誘って暗殺し、
その混乱に乗じて義渠を滅ぼし、隴西郡(甘粛省中部)、
北地郡(寧夏回族自治区、甘粛省東部)、上郡(陝西省
北部)を設置しています。

 このように、根拠地から数倍に拡大した秦は、秦王政
の即位当時、七国中最強の勢力を誇り、他国を圧倒して
いました。
 秦の領土は天下の半分、兵は四国と同時に敵対できる
とする連衡家の説はまさに事実となっていました。

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秦王政即位時の形勢・その1概観

秦王政即位時の形勢・その1概観

『キングダム』ネタの続きです。
 政が秦王に即位した(紀元前247)当時の七国の
形勢は、どういったものだったのでしょうか?

 秦とその時点で実は一時的に強盛であった魏を
中心に紹介しようと考えていますが、今回は
その1の「概観」編です。

・七国の実力
 戦国の七雄、燕、趙、魏、韓、斉、秦、楚の
軍事力を概観しておきます。

 張儀が秦の相となった(連衡策の意図的な開始)
時点から魏冉が相となるまで(昭襄王時期の大拡張
の開始)の時期、秦の恵文王(恵文君)~昭襄王の
初期(紀元前328~295、政の即位の約50~80年前)の
状況であると考えて下さい。

[張]:『史記』張儀列傳。連衡(秦との同盟)の説。
   秦以外の諸国の戦力を小さく評価する。
[蘇]:『史記』蘇秦列傳。合従(対秦同盟)の説。
   秦以外の諸国の戦力を大きく評価する。

(1) 秦:帯甲(装甲兵)百余万、車千乗、騎万匹
    秦の領土は天下の半分、兵は四国と同時に敵対できる[張]

(2) 楚:帯甲百万、車千乗、騎万匹[蘇]
(秦、楚の二国が超大国ですが、楚は後述するように、首都
地域を秦に奪われ、その実力は大きく低下しました。)

(3) 斉:帯甲数十万(首都の臨菑のみで二十一万)[蘇]
(湣王の時に周囲の諸国を破り、滅ぼし「千余里」という
大拡張を行って一時的に秦と並ぶ超大国となりました。
しかし、燕の樂毅が率いる合従軍に破れて国土のほとんどを
征服され、残すところ二城(莒、即墨)という状態となり、
その実力は大きく低下しました。)

(4) 魏:武士(卒)二十万、蒼頭二十万、奮撃二十万(総兵力六十万)、
     厮徒(雑役夫、非戦闘員)十万、車六百乗、騎五千匹[蘇]
     三十万以内(国境守備兵十万を含む)[張]

(5) 趙:帯甲数十万、車千乗、騎万匹[蘇]
(戦車、騎兵戦力では超大国に匹敵します。)

(6) 燕:帯甲数十万、車七百乗、騎六千匹[蘇]

(7) 韓:帯甲数十万[蘇]、
    三十万以内(雑役夫、国境守備兵十万を含み、実質二十万)[張]
(当時、最弱と評価されていたのが韓です。)

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麃(ヒョウ)公将軍とは?

麃(ヒョウ)公将軍とは?

祝!麃(ヒョウ)公将軍、復活!
ということでまた『キングダム』ネタです。

 『史記』始皇帝本紀には即位当初の将軍として蒙驁、
王齮、麃(ヒョウ)公の三人の名があげられています。
この中で名前もわからず、事績の記述も少なく、最も
謎なのが麃(ヒョウ)公です。

 麃(ヒョウ)公は、始皇帝本紀の注には、麃(ヒョウ)
という邑の領主のことで、姓名は不明とされています。

 それでは、麃(ヒョウ)という邑はどこにあるのでしょうか?
注には秦の邑とだけされ、場所についての記述がありません。

・麃(ヒョウ)の位置の手がかり
 手がかりとなるのは始皇帝本紀の「七年・・・以攻龍、孤、
慶都」の記事の注に「慶、一作『麃』。」とあり、慶都が
それである可能性があります。
 それでは慶都はどこにあるのでしょうか?注の続きでは
『括地志』の説として河北省の「定州」(定県)付近に
比定しています。定州の位置は趙の首都の邯鄲の北約210km以上
にあたり、楊寛氏は『戦国史』(p582)で「趙的龍、孤、慶都」
としています。
 しかし、この説には納得できません。趙の邑だとすると、
秦軍が攻めるには、どこから出撃したのか、どうやって途中の
城邑を通過できたのか、なぜ邯鄲のはるか北を攻めたのか
その目的もわからない謎の侵攻になってしまいます。

・七年の攻勢
 「以攻龍、孤、慶都」に続けて「還兵攻汲」とあります。
汲は魏の城邑で現在の河南省汲県西にあたり、秦の東郡に
接しており、兵を還(かえ)したか還(めぐ)らせる方向は
汲の位置からは東郡であると考えることができます。
 河北省以外の候補地がないかを調べたところ、龍、孤、慶都
のうち「龍」は、『中国歴史地図集』第一冊(春秋26-27)に
別のそれが示されていました。位置は今の山東省泰安県南です。
泰安県は泰山の南側にあたり、孤、慶都もこの地域にあったと
考えることができます。
 龍がこれであれば、七年の攻勢では、秦は東郡の拡張を
目指し、秦軍は東郡から魏に向けて出撃し、魏の東のはての
邑の龍、孤、慶都を攻め、兵を還して北に孤立した汲を攻略
した(六国年表の同年の魏の項に「秦抜我(魏)汲」とあります)
と考えるのが妥当なところでしょう。

・龍、孤、慶都を魏の邑とする理由
 この地域は、元は斉の領土でしたが、秦本紀に昭襄王の
「三十六年、客卿灶攻齊、取剛、壽、予穰侯。」とあり
(六国年表の昭襄王三十七年の斉の項に「秦、楚撃我剛、壽」
とあるので、攻略は翌年の可能性があります。)
この付近は秦(と楚の連合軍)に攻略され、その時の相
である穰侯・魏冉に与えられました。
 剛は山東省寧陽県東北、寿は山東省東平県西南で、龍は
剛の東にあり、龍、孤、慶都が秦の邑となった可能性が
あります。
 穰侯・魏冉は東の飛び地である陶(山東省定陶県)を
封地(領地)としており、陶郡は中原の一大侵略拠点
として機能し、これに接する諸国は秦の侵略を受け続け
ていました。
 この三十六年の侵攻も陶の拡張を目論んだものです。
 転機は昭襄王の五十年に秦軍の邯鄲攻略が魏と楚の
援軍によって失敗したことでした。
 魏は息を吹き返し、安釐王、信陵君の兄弟によって
短期間ながら新たな最盛期を迎えることになります。
 秦は征服した領土の多くを奪われることになりました。
このことは『史記』ではなく、『韓非子』有度編の記述に
よって知ることができます。陶郡は付近の小国の衛ととも
に魏に征服されました。また、「加兵于斉、私平陸之都」
という記述から、平陸は剛、寿の間にある邑で、この付近
も魏の領土(郡)となったことを示しています。
 ということから、私は龍、孤、慶都を魏の邑として
います。

・麃(ヒョウ)公の前歴
 この慶都=麃であるとすると、麃(ヒョウ)公の
前歴を二つ想像することができます。前者の可能性が
圧倒的に高いのですが。

(1) 昭襄王の時からの宿将で、陶郡を中心として相の穰侯・
魏冉が征服を進めていた頃に(昭襄王の三十七年以降)、
戦功により当時は秦の邑であった麃(ヒョウ)を与えられた。

(2) 麃(ヒョウ)はその地域にあった半独立の小国で、
麃(ヒョウ)公はその「君主」であったが、おそらくは
斉か魏に滅ぼされ、秦に仕えることになった。
(これなら、まるで呉慶!)

 いずれにせよ謎の人です。

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最後の合従軍:余談

最後の合従軍:余談

・余談その1:相邦・呂不韋
 秦の制度では厳密には「相国」という官職はなく、呂不韋は
正しくは「相邦」でした。これは秦始皇帝兵馬俑と同時に出土
した兵器などの考古史料によって知ることができます。
 それではなぜ『史記』では「相国」と記述されているかというと、
司馬遷が漢の初代皇帝、高祖 劉邦の諱(いみな、本名)である
「邦」の字を避けたからです。
 こうした、その時の王朝の歴代の皇帝の諱の文字を避け、別の
文字で置き換えることを「諱避」と呼びます。
 中国では一般に本名である諱を呼ぶことは失礼とされて来ました。
そのために呼び名としての字(あざな)があります。

・余談その2:天下統一後の秦の首脳陣
 天下統一(二十六年)後、始皇帝(政)は、天下を巡幸しますが、
琅邪台に刻ませた銘文から、随行したその時の秦の文武の
首脳陣を知ることができます。以下にその一覧を示します。
 これに含まれなかったのは首都の咸陽の留守にあたっていた
誰か(不明)と北辺にあった蒙恬ということになるでしょう。

列侯武城侯・王離
列侯通武侯・王賁
倫侯建成侯・趙亥
倫侯昌武侯・成
倫侯武信侯・馮毋擇
丞相・隗林
丞相・王綰
卿・李斯
卿・王戊
五大夫・趙嬰
五大夫・楊樛

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最後の合従軍

最後の合従軍

『キングダム』ネタです。

第263話より
「何じゃそれはァァ」(相国・呂不韋)
(………"合従軍"だ!!)(政)

 というところで、連載は夏の合併号のため「待機じゃあ」
となっています。
 そこで少しこの「合従軍」の背景とかを書いておきます。

・秦王・政六年の合従軍
 『史記』六国年表の、始皇帝(秦王・政)六年に「五国共撃秦」
という記事があります。これこそ中国の戦国時代、最後の"合従軍"
です。
 これは趙の龐煖が将として指揮する五国の鋭卒(精鋭兵)から
なる連合軍で、寿陵(位置不明)を攻略した後、秦の領内深く
侵攻し、咸陽に近い蕞(陝西省臨潼県東北)を攻めるものの攻略
できず、秦が出兵すると五国は侵攻を中止しました(趙世家、
始皇帝本紀)。
 ところで楚世家には、「與諸侯共伐秦、不利而去」とあり、
「不利」の二文字は単なる劣勢ではなく、むしろ敗北した時に
使われることから、合従軍は秦の反撃を受けて敗退したものと
考えることもできます。

・合従の五国 
 強国をめぐって同盟をどうするかを指す言葉の「合従連衡」は、
もともと対秦の同盟の「合従」と、秦との同盟を指す「連衡」を
組み合わせた言葉で、中国の戦国時代の二大外交政策を表現して
います。
 戦国時代、外交をになった人物を「縦横家」と呼びます。
 北を上とする地図を見るとわかりますが、「合従」は縦の同盟
で、「連衡」は横の同盟であることがわかります。
 龐煖は『漢書』芸文志の記述から縦横家であり、兵家である人物
として認識されており、この同盟は彼が主導したものと考えられます。
 五国は始皇帝本紀と趙世家では構成が異なっています。
 始皇帝本紀では、「韓、魏、趙、衛、楚」の五国とされていますが、
注釈者や現代の研究者は、衛に疑問を呈していて、趙世家より「燕」
を入れて、「韓、魏、趙、燕、楚」としています。第263話はこの説
によるものなのでしょう。
 私はこの始皇帝本紀の記述はそれなりに正しいのではないかと
考えています。
 同盟の主唱国である趙と燕は、前年まで戦争状態にあったことが
理由の一つです。
 また、衛は魏の属国であり、名目の数合わせのために組み込まれた
というのはありうることです。

・合従軍その後 
 さて、秦から退却することになった合従軍はどうなったの
でしょうか?
 奇怪なことに矛先をかえて斉に襲いかかり、饒安(河北省塩山県
西南)を攻略しました。
 さて、楚ではこの合従軍の失敗後、秦の反撃を恐れ、防御を固める
ために首都を鉅陽(安徽省阜陽市北)からさらに東南約110kmの寿春
(安徽省寿県)に移しています。寿春は有数の大河川である淮水の
南岸に位置し、淮水を防御線とすることと、春申君の封地である呉
(江蘇省蘇州市)とは水路で接続するという利点がありました。
 これは杞憂ではなく、同年の始皇帝本紀には「拔衛」の記事があり
魏の属国であった「衛」は攻略され、君公と一族は秦の野王(河南省
沁陽県)に移されています。五国が始皇帝本紀の通りなら、これは
秦による懲罰戦争と考えることができます。
 これ以降、数カ国が合従する軍が編成されることはありません
でした。

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「戦争の起源」

「戦争の起源」
副題「石器時代からアレクサンドロスにいたる戦争の古代史」
アーサー・フェリル著 鈴木主税、石原正毅訳
河出書房新社
1988年初版、1999年新装軽装版
ISBN:4309221556(88版),4309223478(99版)
新刊としては入手困難なので、古書を探す必要があります。

地中海世界における軍事の流れを、話題となったテルモピュライ
の戦いを含めて概観できます。最後にアレクサンドロス大王率いる
マケドニア軍がワーテルローの戦場においてウェリントン率いる
イギリス軍とあいまみえたらというwhat-ifもありシミュレーション
ゲーマーにとって必携の一冊となっております。

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Anniversaries(Osprey Publishingによる)

Anniversaries(Osprey Publishingによる)

Osprey Publishingといえば、軍事関連の出版社として
有名ですが、そのweb siteでは重要な(有名な)戦争、
戦闘のAnniversariesを知ることができます。

例えば6月ですと、

1941年6月1日 クレタ島をドイツ軍が攻略。
1865年6月2日 アメリカ南北戦争終結。
1940年6月4日 ダンケルクからの撤収完了。
1942年6月4日 ミッドウェイ海戦はじまる。
1967年6月4日 6日間戦争はじまる。
1944年6月6日 D-Day。
1932年6月15日 チャコ戦争はじまる。
1812年6月18日 第二次米英戦争はじまる。
1815年6月18日 ワーテルローの戦い。
1900年6月20日 義和団事変はじまる。
1942年6月21日 トブルクをドイツ軍が攻略。
1941年6月22日 バルバロッサ作戦はじまる。
1944年6月22日 バグラチオン作戦はじまる。
1314年6月23日 バンノックバーンの戦い。
1950年6月25日 朝鮮戦争はじまる。
1876年6月26日 リトル・ビッグ・ホーンの戦い。

といったところでしょうか。

詳しくは以下を参照下さい。

http://www.ospreypublishing.com/content2.php/cid=282

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